山形市立南山形小学校には、教員が担当する日本語教室があります。ここでは、1995年という山形県内ではきわめて初期に、外国人児童生徒に対する日本語学習支援が開始されました。その日本語教室で学んだ卒業生ふたりの体験談を紹介します。

体験談1. 日本語教室と先生

 私は、小学校5年生の時に日本に来ました。学校に入ったばかりの時は、楽しみと不安の両方で胸いっぱいでした。楽しみにしていたのは、新しい環境で勉強ができるからです。中国の学校にはなかった授業、プール、クラブ、給食、遠足など、私にとって、全部初体験でした。学校は勉強だけではなく、いろんなことができるんだなあと思いました。中国で学校に通っていた時、昼食は、4時間目が終わってから家に帰って食べるか、もしくは買って食べるかでした。だから、日本の学校で給食が出ると聞いてびっくりしました。夏にプールの授業があると聞いた時も、とても驚きました。中国にはなかったからです。日本の学校でいろんな授業が受けられてとても楽しかったです。

 でもその反面、不安もたくさんありました。私にとって一番心配していたのが、日本人とうまくつきあえるか、言葉が分からないため、みんなとどうコミュニケーションをとったらいいかということでした。「日本人の子どもってどんな感じかなあ、みんな、どんな服や髪型で学校に来てるのかなあ、休み時間はどんな遊びをしてるのかなあ」と、日本人の子どもにとても興味を持って頭の中でいろいろな想像をしていました。そして、先生に案内されて初めて教室に入った時、みんなとても優しくて、積極的で、自分から私の席に来て自己紹介をしてくれました。その時はみんなが何を言っていたのか理解できなかったけど、でもみんなの笑顔を見て、私はとてもホッとしました。中国にいた時みたいに、すぐに友だちがいっぱいできるし、言葉が通じなくてもみんなと仲良くなれると思っていました。私のほかにも中国人の子どもが同じクラスにいると聞いた時、少しびっくりしたと同時にとてもうれしかったです。同じ中国人だからか、その子とすぐに仲良くなれました。

 日本人の子どもは、最初は優しかったけど、いつの間にかみんな私を避けるようになりました。初めはあまり意識しなかったけど、だんだんと時間がたつにつれてエスカレートしていきました。みんなが何を言っていたのか、その時の私には分からなかったけど、でも周りの人の動きや視線、私の方を見ながら2、3人でこそこそ笑ったりにらみつけてきたり、目の動きで「私のこと、嫌がってるんだなあ」と、その時、初めて気づきました。給食の時間、わざと醤油を回してくれなかったり、プリントが私にだけ配られなかったり、女子に、男子の定規やコンパス、笛などを、何度も机の引き出しに入れられたりしました。もっとひどいことに、下駄箱の靴を隠されたり、画びょうを入れられたりしたことも何回かありました。犯人は分かっているのに、言葉が通じないため、聞き出すことも、理由を聞くことも、反発することも、先生に訴えることも、何もできませんでした。苦しくて辛くて、胸が引き裂かれるような思いでいっぱいでした。だんだんと学校に行くのが嫌になってきました。「人の苦しむ姿を見て何が楽しいんだろう」と考えながら、ずっとクラスメートを憎んでいました。

 そんな時、唯一私の心の支えとなったのは、中国人の友だちと日本語教室でした。学校での休み時間は、私たちはいつも一緒に日本語教室で過ごしました。そこで中国のゲームをしたり、お互いその日の出来事を話したり、困っているときは相談に乗ったりアドバイスをしたりしながら、日々を過ごしていました。

 日本語教室の先生も、私たちのために、一生懸命に相談に乗ってくださいました。日本語で上手に伝えられないため、私は中国語で自分の思いを伝えて、先生が一緒に解決しようと真剣に努力してくださいました。先生方は、私たちがいないところで、クラスで話し合いをしてくださったようです。教室に戻ってみると、泣いている子がいたり、いじめていた子が謝ってきたりして、その後は、そんな嫌なことはなくなりました。

 また、私たち中国人の子どもと少しでも早くコミュニケーションがとれるように、日本語の勉強方法をいろいろ考えて実践してくださったり、ご自分も中国語を勉強してくださったりして、とてもいい先生で、すごく感謝しています。私がここまで乗り越えられてきたのも、同じ仲間と先生がいたからです。

 これからの外国人の子どもたちに、自分と同じような苦しい思いをさせないために、日本語教室と、外国人の子どもを支援する先生は、なくてはならない存在だと思います。

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体験談2. 日本の文化や習慣を学ぶことの楽しさと大切さ

 私は、1999年11月2日に家族とともに、隣国である中国から、中国残留孤児で山形県に住んでいる祖母のもとにやって来ました。私たち家族はそのまま山形に住居を構え、私は近くの南山形小学校の4年生として新生活をスタートしました。その後は、山形市立第九中学校、山形県立西高等学校へ進み、そして今は、東北大学法学部で日々勉強しています。

 小学校に入学した当時の私は、日本語でやっと挨拶ができるようになったばかりでした。それにもかかわらず、あまり不安や孤独を感じなかった気がします。今になってその訳を考えてみたら、きっと自分の境遇を理解しサポートしてくれる先生方、同じ境遇の仲間が周りにいて、自分を飾る必要のない自分だけの空間があったおかげなのではないかと思っています。

 私が小学校の間通っていた日本語教室を例に挙げてみます。その教室は小学校の中にあり、理解の難しい国語の授業の時などに通っていました。日本語教室では、先生にほぼマンツーマンで日本語を教えていただきました。日本語が少しずつ分かってくるにつれて、漢字、算数、社会、理科など普通の小学生が勉強するようなものも勉強するようになりました。また、勉強と同時に、日本の習慣や文化についても教えていただきました。ひな祭りの時は、日本語教室の仲間と一緒にちらし寿司を作ったり、花見の時はみんなで団子を食べて桜を観賞したり、中国で体験したことのない日本独特の文化に触れることができました。私にとって日本語教室は、日本語という新しい言語を教えてくれる場所であるだけでなく、日本社会とのつながりを与えてくれた場所でした。

 私は、大学のボランティアサークルで、中国残留孤児二世、三世と交流する機会がありました。その時、多くの二世は日本で何年も生活し、三世は日本で生まれた人も少なくないという状況にもかかわらず、ひな祭りや豆まきなど、日本の文化や生活習慣についてあまり詳しくないという印象を受けました。もし私も日本語教室で日本文化を経験していなかったら、今でも知らないのではないかと思います。日本で生まれても両親は中国での生活が長く、家族ではどうしても中国のしきたりが強いからなのではないかと思います。日本で暮らすためには、日本語だけでなく、日本の文化や習慣について知ることがとても大事なことだと私は思っています。もちろん、出身国(中国)の文化についても理解していることが大前提です。家庭でこれらを経験するのはなかなか難しいと聞いていますし、自分自身も感じていますので、ぜひ、先生方の力をお借りしたいところです。

 小学校卒業と同時に、日本語教室も卒業しなければならなくなりました。日本語教室の時は、自分を理解してくださる先生方、同じ境遇の仲間たちがいて、辛いことがあっても皆に相談して解決してきました。しかし中学校に日本語教室はなく、週一回、先生が学校に来て勉強を教えてくださいました。また、日本語教室の仲間もバラバラになって、今まで団体戦で戦ってきたのが、突然、個人戦になった想いでした。ある意味、中学校が本当の始まりでした。自分を小学校でのように理解してくれる人がいなくなり、一種の孤独感に襲われました。小学校の時は楽しかったと感じることが多々ありました。でも、自分を支えてくれる大事な家族、先生、バラバラになっても励まし合う仲間の顔を考えたら、勇気が湧いてきました。そこで思いついたのが、「自分の空間がなくなったら、また一から造ればいい」ということでした。新しい先生や友人に自分のことを分かってもらえるように、日本にいるわけ、小学校のこと、日本語教室のこと、家族のことなど、積極的に自分のことを話しました。そういうこともあり、皆もだんだんと理解してくれて、中国について興味を持ってくれるようになりました。友だちが家に訪ねてきては、お母さん手作りの餃子や肉まんを一緒に食べました。

 日本語や日本の習慣が完璧でなくても、こうして理解してくれる仲間がいることがとてもうれしく心強かったです。今でもそうですが、先生、友だちをはじめ、本当にたくさんの人に支えられて生きてきました。日本の生活にも慣れ、支えてくれた方々のように、自分も誰かの力になりたいと強く思うようになりました。そのためには、まず、自分が一人前にならないといけないと思ったのです。自分が皆と違うからできなくて当たり前という逃げは絶対にしないと自分に約束し、自分でできることはなるべく自分でするようにしました。その約束の中に、周りに認めてほしいという願いも込められていたのではないかと、今となっては思います。私の経験から、先生をはじめ周りの人は、外国の子どもを特別扱いするのではなく、なるべくその生徒の個性として見守ってほしいです。

 私の日本語や生活習慣は、これからも完璧になることは絶対にないと分かっています。しかし、こういった経験をした私にしかできないことも絶対にあると信じて日々生活しています。今でも、分からない日本語が多く出てきます。それでも恥ずかしがることなく、聞くことが大事です。それよりもっと大事なのは、聞ける環境です。私自身も周りのサポートや周りの環境がなかったら、今の自分が決して存在し得ないと感じているからです。先生をはじめ周りの人がその子を理解し、環境作りを支援していくことがとても大事だと思います。

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